事務所代表者プロフィール

橋本誠一郎
1971(昭和46)年2月2日 埼玉県浦和市(現さいたま市)にて生まれる。
市内の小・中・高校を卒業。
駒澤大学文学部社会学科卒業。
人を対象にした社会学を専攻し、組織やコミュニケーションについて学ぶ。

私は死を覚悟したことがあります。そのあとから、『子供が自慢できる親になろう!』、『子供に誇れる仕事をしよう!』と考えるようになりました。
そんな私の、つたないキャリアをふりかえりながら、自分のミッションを書いてみました。

 

幼少期~学生時代

サラーリマン家庭の長男として現在のさいたま市で生まれ育ちました。穏やかで優しかったと評判の父親が、私が小学校1年の時に他界。私の人生は一変しました。それまで一人っ子で甘やかされて育っていたのが、母親の実家に転がり込み父親の他界直後に生まれた弟を含め、2家族3世代9人の生活が始まりました。年齢が近いいとことの生活は楽しかったのですが、甘やかされて育った日々とは一変、厳しい叔父と偏屈な祖母をはじめとする大人数の生活の中で、処世術を身につけていきました。

周りの人間を観察することが好きで、大学では人間学ともいえる社会学を学びました。このころは、まさか将来、人間を対象にした社会保険労務士になるとは夢にも思いませでした。
将来、一国一城の主になることが目標で、就職活動は、小売業と飲食業を中心にまわり、ありがたいことにいくつかの会社から内定をもらいました。その中で、会社の成長の勢いと将来性に魅力を感じて、ホームセンター業界の大手企業に希望を抱いて就職しました。

流通業への就職

そこでは、入社前の「無給」の泊まり込み研修、毎月60時間以上のサービス残業、2、3日前の突然の転勤など、今でいうブラック企業でした。

入社前合宿では、社会人のマナーや業界の知識やマーケティングなどの商売の知識の習得はほとんどなく、ひたすら大声を出す訓練をさせられました。自分の選択が正しかったのか不安を抱えながらの毎日の中でしたが、『得られるものはあるはず!』と考え、独学でマーケティングを学び、商品の発注のタイミングや陳列の方法を工夫し、毎月の売り上げノルマを8割以上クリアしてきました。社内の売場コンテストでは、新人ながら最優秀賞を獲得しました。

実績が認められ、2年目に新入社員の教育担当になり、教育に興味を持ち始めました。ただ、新入社員よりも手ごわいのは、部下である自分の母親ほどの年齢のパートです。彼女たちと格闘するなかで、どうしたら自分の言うことを聞いてもらえるかを身をもって学びました。

もうこれ以上は無理!と感じ、1年半で退職。このとき、一緒に入社した同期90人はすでに30人にまで減っていました。

塾講師への転職

もともと人前で話すことが苦にならず、教育業を突きつめたいと考え、塾の講師になりました。
塾講師は入れ替わりが激しく、たくさんの講師を見てきた中で、人気ある講師は、『分かりやすい授業』だけではなく、『人を惹きつける話し方』や『細やかなフォロー』なども必要であることを実感しました。通うのは子供でも、お金を出すのは親、である塾は、キーマンは親です。子供のハートをつかむだけでは足らず、親(特にキーマンとなる方の親、母親であることが多い)のハートをつかむ必要があります。ここで、前職でのパートへの接し方が生きてきました。

子供と親の信頼を勝ち取り、講師として当時塾内でNo.1の合格実績を達成しました。(教え子の進学先は御三家や早慶付属校など、私より優秀です!)成績だけでなく、夏季講習やオプションの講義など、教え子の受講率は常にトップでした。また、ありがたいことに、紹介もNo.1でした。

塾講社会保険労務士・行政書士への挑戦

やりがいを感じる毎日でしたが、30歳を目前にして自分の人生を考えだしました。当時結婚を考える彼女がいましたが、『1コマいくらの浮世稼業では、結婚なんて冗談じゃない!』と育ての親である伯父にダメ出しをされてしまったのです。将来自分の子供と夜に会えない塾講師業に、見切りをつけて転職することにしました。

しかし、冷静に考えてみると、ハタっと困ってしまいました。今までのキャリアといえば、店員と塾講師。どちらの業界にも転職するつもりはありませんでしたから、どこにいっても未経験。しかも、すでに年齢はアラサーです。客観的に考えて、こんなヤツを雇う会社なんかあるわけない。

ならば、『資格を取ろう』と、当時一生懸命考えた結果です。どの資格かと考えているとき、人間に興味があり大学で社会学を学んだことを思い出して、『自分には、社会保険労務士しかない!』と決意しました。社会保険労務士を取ることを決意したので、あとは実務経験を積むことを考え、就職活動を始めました。

『社会保険労務士を目指して勉強中です!』と人事を希望して就職活動しましたが、ことごとく落ちる毎日。『受からなければ、結婚できない』と自分を奮い立たせましたが、書類選考・面接どちらも通りません。
そんなある日、社会保険労務士事務所の求人を見つけ、ここに何としても入るんだと応募書類を届け、面接では熱い想いをぶつけて、無事採用を勝ち取りました。その後、別の社会保険労務士事務所の募集にも合格。求人がほとんどないといわれる社会保険労務士事務所の求人募集に、ありがたいことにふたつも合格をいただきました。そのうちのひとつにお世話になることを決め、社会保険労務士を目指す日々が始まりました。

入社直後に迎えた初めての社会保険労務士試験は玉砕。翌年の合格を決意して、受験予備校に通い始めました。通い始めるうちに、どうせ取るならダブルライセンスにしようと、社会保険労務士の試験と並行して行政書士の勉強も始めてしまいました。周囲からは当然、社会保険労務士を取ってからにしなよ・・・と言われました。何と言われようが『大丈夫!』と押し切りました。

その頃、プライベートでは、無事就職も決まり、人生設計もたったのでので、彼女との結婚も無事決まりました。その年、社会保険労務士に合格、続けて行政書士にも合格しました。子供もでき、家庭も仕事も充実した日々を送っていた中で、歯車がすこしずつ狂いだしていたのですか、その頃はまったく気がつきませんでした。

闘病生活

めまい編

2人目の子供もでき、ますます張り切る中、夏のある日突然倒れてしまいました。目がぐるぐる回り、少しでも動くとおう吐を繰り返し、救急車で運ばれてしまいました。
診断はめまい、原因は不明、5日間の入院。寝たきりと点滴のためでげっそりと痩せました。約3週間の休職を経て、無事復帰。健康のありがたさを実感しました。

復職後は、健康管理には十分に気をつけてはいたのに、約2週間後に再びめまいを発症してしまいました。またもや救急車で運ばれ、入院となりました。引越しをしてわずか4ヶ月で2回も救急車で運ばれ、アッという間に近所の有名人になりました。今回は4日ほどで退院しましたが、上司から『しっかりと治してから戻ってこい』と言われ、今度は1ヶ月ほどお休みしました。

だいぶ回復し、もうすぐ復帰という10月下旬、微熱が続くようになりました。通院していた地元の病院でいろいろと調べてもらうと、『うちではこれ以上は分からないので、大学病院などで診てもらってください』と宣告。当然、復職は延期。付き合ってからも初めて、妻の前で涙が出てきました。

微熱編

東京の病院に通い検査が続き、診断を確定するために手術をすることになったのです。このとき12月。実は、私の父親は、私が小学1年生の12月に手術をし、12月の暮れに亡くなっています。医師には、今回の手術はリスクは少ないとは言われたものの、初めての手術や父親のことを考えると不安で仕方がありません。手術前には墓参りに行き、『お父さん、助けてください』とお参りしたのを覚えています。
無事手術は成功したものの、予想以上の症状で、予定の時間をはるかにオーバーしたため、家族は気が気じゃなかったと後で聞かされました。

退院後の診察前に、病名を聞かされたのですが、この病名について調べたところ、進行性のものは数週間で死に至ることや、5年生存率30パーセントことを知り、吐き気を催しました。幸い、私の場合は調べた症状でないことが分かり安心しましたが、このとき初めて死への恐怖を始めて味わいました。

頭痛編

しかし、闘病生活を送るも一進一退で、良くならないことにイライラする日々。良くなるどころか、1年半ほどたったころ、ひどい頭痛に悩まされるようになりました。頭痛で、もどしたり、眠れなかったり、ますます体調が悪化しました。そして、右耳がまったく聞こえなくなってしまいました。

ある日、主治医から、『検査の結果、頭の中に影が広範囲に広がっています。』、またもや、今回も診断を確定するために手術をした方がいいとのこと。言葉が出ませんでした。影の正体を尋ねると、『炎症か腫瘍か現時点では判断できません。そのために、手術をした方がいいです。』『ただ、炎症であってもこれだけの広範囲では危険、腫瘍であれば命にかかわります』・・・。
このあとも、『手術はするが、何もできない可能性があること』『広範囲過ぎて、手術で全部取りきるのは不可能であること』『最悪の場合は、数か月ももたないこと』、受け入れがたい内容の話が続いたのです。

自分は永くは生きられないかもしれない・・・。
『何で自分が?』『幼子がいるのに・・・』『死にたくない』『助けて』と毎日毎日涙が止まりません。二度目の、前回とは比べ物にならないほどの死の恐怖を味わうことになりました。
手術が終わり、検査が出るまでの約1週間、本当に生きた心地がしませんでした。胃痛が続くので調べてもらうと、胃潰瘍になっていました。
無事結果は炎症。安心できる状況ではないものの、すぐに死んでしまうことはなさそうだとわかり、今度は安心の涙が止まりませんでした。

結局、前回も今回も原因は不明でしたが、飲み始めた薬が効き始め、やっと体調が回復の兆しをみせ始めました。そして、仕事ができるまでに回復するまでさらに1年近くの時間を要しました。この状態に落ち着くまでに、本当にたくさんの病院に行きました。すでに休職も2年を越えていて、小規模な勤め先には自分が戻る場がないことも承知していました。このころから、自分で仕事を始めるしかないと考え始めました。
同時に、ありあまる時間がある療養生活の中で、病気のこと、今までのこと、これからのことなど、何度も考えました。『何で自分が病気になったんだろうか?』『何で助かったんだろうか?』『これから先どうしていけばいいのだろうか?』・・・。

開業~使命~

なんとか日常生活を過ごせるほどまで回復したので、経験を活かし、社会保険労務士の仕事を思い切って、自分で始めることにしました。というより、実のところ、定期的に通院をして、体調と相談しながら働くには、これしかなかったのです。私が倒れてから妻が働き始めたものの、二人の幼子がいる生活は楽ではありませんでした。今だから話せますが、倒れてから事務所が軌道に乗るまでの数年間は、ギリギリの生活で、税金も保育料もすべて免除でした。

早く事務所を軌道に乗せなければと焦って無理をすると、体調を崩してしまうこともしばしば。まだまだ自分の体との付き合い方が分かりませんでした。たどり着いたのは、『できないことを嘆いていても仕方がない!』『自分ができることをしよう!』、そして、親として子供に生き様のような何かを残したいと考えるようになりました。『子供が自慢できる親』『子供に誇れる仕事』です。『自分を必要としてくれる方々に対して、嘘をつかない仕事・生き方』をしようと決意しました。

私がお付き合いしているのは、中小企業の社長さんです。中小企業の社長さんに対して、机上の空論や杓子定規な法律論を伝えるのではなく、社長さんと一緒に目標を目指してゆく。何かあったらいつでも相談できる頼りがいのある存在となることが私のミッションであり、存在価値であり、喜びです。理想の実現に燃える社長さんと、そこで働くイキイキと働く社員が1人でも増え、『子供が自慢できる親』『子供に誇れる仕事をする大人』を少しでも増やしていくことが私のミッションであると考えています。

幸い良い出会いに恵まれ、なんとか事務所も少しずつ安定してきました。前職社会保険労務士事務所勤務を含め、2011年現在で、社会保険労務士として10年目を迎えています。今までで、330社ほどの会社の労務管理や就業規則の作成を行ってきました。助成金の申請額も、実際に私が申請を行ったスポットでない顧問先のみの合計で、1,300万円を超えます。

最近では、顧問先やお知り合いになった方からのご依頼で、セミナーや講演会の講師をすること機会をいただき、足を洗った塾講師時代の経験が活きています。
そして5年目を迎える年に事務所を移転。久しぶりに通勤したときは感無量でした。素晴らしい職員も雇い、良い出会いに感謝する毎日です。

現在も定期的に通院はしていますが、自分の体との付き合い方が分かってきて、今では体調を崩すこともなくなりました。以前より健康管理に気をつけている分、かえって体調がいい日が多いくらいです。今では、片耳が聞こえない分、相手の方の話を集中して聞くようになりました。同年代の人では経験できないほどの病院通いをした結果、たくさんの医師や看護師、事務スタッフなどとも接しました。そのため、患者の側から行きたい病院や二度と行きたくない病院を経験しました。当然両者には、理由があることも分かりました。その経験を活かし、医療機関の顧問先が増えてきております。

病気になって、自分の生き方を見つめ直し、考え方が変わり、ミッションに気づきました。さらに、現在の仕事に役立っています。本当に感謝しています。
今お付き合いしている方々の将来、これからどんな方々と出会えるのだろうか、自分や家族などの将来のことなどを考えると自然とワクワクしてしまいます。これからも、『自分を必要としてくれる方々に対して、嘘をつかない仕事・生き方』をしていきます。社長さんと一緒に目標を目指し、理想の実現に燃える社長さんと、そこで働くイキイキと働く社員が1人でも増え、『子供が自慢できる親』『子供に誇れる仕事をする大人』を少しでも増やしていきたいと考えています。

最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。

事務所の理念

橋本事務所のミッション・ビジョン・カンパニースピリッツです。

橋本誠一郎

ビジョン ~夢~

子供が憧れるカッコいい大人に自分がなり、子供が憧れるカッコいい大人を世の中に増やす!

私は、闘病中に、親として子供に生き様のような何かを残したいと考えるようになりました。それは、『子供が自慢できる親』『子供に誇れる仕事』です。『子供が憧れるカッコイイ大人になろう!』と決意しました。そして、自分の仕事を通して、世の中に『子供が憧れるカッコイイ大人を増やしていこう』と考えています。
私橋本が考える『カッコイイ大人』とは

・楽しく仕事をしている : 仕事への誇り
・プライベートが充実している : ワークライフバランス
・経済的に自由 : お金の悩みから解放

ミッション~使命~

「やる気がみなぎる」コンサルティング

・社長の夢の明確化・実現お手伝い⇒社長が子供に継がせたい会社の実現!
・社員が自主的に働く会社⇒社員が誇りに思う会社の実現!

カンパニースピリッツ~軸~

安心安全な場を提供

人間として【情】⇒こころ許せる安心感

裏付けのある強固な守り

法律家として【知】⇒客観的に安全な安心感

だから、『本気で社長と付き合います!』
★ミッション・ビジョン・カンパニースピリッツの実現のために、
すべての企業様に対して、代表の橋本誠一郎が対応しております。

【その1】『社会保険労務士って何をしてくれるの?』

社会保険労務士は歴史が約30年と浅いため、取り扱う業務が一般的には知れ渡っていないようです。社会保険労務士が取り扱う業務は社会保険労務士法により定められています。代表的なものとしては労災保険・雇用保険・健康保険・厚生年金などの書類作成、手続き代行があります。(社会保険労務士以外の者が、このような業務を行い報酬をもらうことは違法となります。)

そのほか社会保険労務士は、採用・教育・就業規則作成・人事制度の構築など人事労務に関するすべてのこと以外にも、助成金、年金、労働問題解決など
『人と組織の専門家』として、会社発展のお手伝いをしています。

【その2】『社会保険労務士なら何でもできるの?得意分野はあるの?』

社会保険労務士が取り扱う法律は300以上あるといわれています。どんなにベテランの社会保険労務士でも、一人ですべての分野のエキスパートであることは不可能です。

橋本事務所の場合

橋本事務所では、そのような不安を解消してもらうため、『中小企業のための社会保険労務士』に特化しております。さらに、『病院・医院・診療所・クリニックの人事労務・経営コンサルティング』、『社会保険料の適正化』、『労働問題の解決』を専門としています。
当事務所は、これまでに多くの病院・医院・診療所・クリニックの人事労務・経営コンサルティング、社会保険料の適正化、労働問題の解決をお手伝いしており、豊富な実績があります。

【その3】『社会保険労務士ってお役所と同じこと言うのでは?』

確かに法律を違反することはできません。しかし、法律を杓子定規に当てはめていくのでは、社会保険労務士の存在する意味が無いと考えております。

橋本事務所の場合

橋本事務所では、そのような不安を解消してもらうため、それぞれの会社の実情にあったやり方で、法令を遵守して問題の起きない組織作りをしていくことを目指しています。また、社会保険労務士業務はサービス業であることを強く認識し、これを職員一同が徹底しています。
特に労働問題は、依頼者である企業は困りはてて社会保険労務士に相談に来られます。依頼者の立場に立ち、どのような方法が依頼者にとって一番有利で、かつ将来同じような事態を招かずにすむかまで考えて業務に取り組んでおります。

【その4】『社会保険労務士って何か聞きづらい・・・』

社会保険労務士は、弁護士や税理士と同様の資格業のため、ちょっとした質問をしづらい雰囲気を与えているかもしれません。
しかし、毎日の会社経営中で発生するちょっとした疑問を解消していくことこそが、円滑な会社運営には必要です。

橋本事務所の場合

橋本事務所では、そのような不安を解消してもらうため、社会保険労務士業務はサービス業であることを強く認識し、これを職員一同が徹底しています。『依頼者に誠実であること』を理念として掲げ、相談しやすい雰囲気作りを目指しております。内容が依頼者の立場に立ったものである、説明を十分に行う、法律用語や専門用語を分かりやすく話す、メリットばかりでなくデメリットやリスクについても説明する、安易に結果を請け負わない、分かったふりをせず分からないことは調べてから回答する、などを心がけております。
また、依頼者の立場に立ち、出来る限り費用を明確にしております。会社の実情や規模に応じて異なりますが、適切な価格にて依頼者のお役に立つことを心がけております。